[編集発行] (公財)つくば科学万博記念財団 [協力] 科学技術振興機構(JST)・文科省研究交流センター

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フランスの国立科学研究センター(CNRS)の黎明(れいめい)期と物理学者ジャン・ペラン

(2019年4月15日)

図1:ジャン・ペランの銅像
  (CNRS本部にて著者撮影)

 フランスの国立科学研究センター(CNRS)は2019年に創設80周年を迎えました。CNRSはフランス最大の研究機関で、研究者約15,000人と研究支援者約15,000人が、物理、数学、化学、生物科学、環境、エンジニアリングなどの10の研究分野にわたって基礎研究を行っています。CNRSはフランス全国の大学と共同でラボを営んでおり、CNRS研究者の86%はそこで大学研究者と一緒に研究を行っています。大学共同ラボで研究を行うCNRS研究者と大学研究者の合計は約40,000人にのぼり、これはフランスの公的研究機関研究者数の35%にあたります。CNRSは正にフランスの基礎研究の背骨といえる存在です。その創設に尽力したジャン・ペラン(1870-1942)は、実はCNRSの前身ともいえる生物生理化学研究所(IBPC)の設立にも深く関わっています。

 IBPCは1927年、物理学者のペラン、生理学者アンドレ・メイヤー、化学者のジョルジュ・ウルバンが中核となって設立されました。生理学という分野を切り開いたクロード・ベルナールが主張した、「物理学者、化学者、生物学者を一つ屋根の下に結集して、生命のメカニズムへの知見を深める研究を行い、がん治療のような社会に貢献する研究」へ、といった分野横断的な橋渡しの実現を目的としていました。
 物質の分子構造の証明により1926年ノーベル物理学賞を受賞したペランは、世論を二分した政治闘争に発展したドレフュス事件(1894)を契機に友人の研究者らと共に政治に関わるようになった、高等師範学校の卒業生でした。彼らは、研究は人間社会の改善に資するべきものと考え、科学が社会的役割を果たすことを信条とするようになりました。当時のフランス政府にはIBPC設立に配分する資金的余裕はなかったため、ペランは篤志家エドモン・ロートシルト男爵に支援を仰ぎました。銀行家でもあった男爵は、若き日に生化学者ルイ・パスツールやベルナールを見知っており、生物学の基礎研究がフランスの経済的発展に寄与する確信があったといいます。
 IBPCはパリ市内カルチエ・ラタン、サントジュヌヴィエーヴの丘の一角に建設されました。当時はめずらしかった電話線や耐振動設備、X線発生装置、圧縮空気の配管、実験用の動物飼育設備や温室といった最新の設備が備えられ、フランスで最も進んだ研究所でした。科学者自らが研究所のマネジメントをすることも新しい試みで、ペランら三名の科学者が運営に携わりました。科学者が基礎研究に捧げる時間に対してエドモン・ロートシルト基金が給与を支払うという仕組みは、「研究」が職業となった瞬間であり、この頃を境に学者<savant:サヴァン>と呼ばれた人々が研究者<chercheur:シェルシェール>と呼ばれるようになっていきました。

 戦時占領下のフランスで物理学は、原子力や軍事技術の開発に関わることから研究推進に困難を伴うようになり、IBPCの物理学者の一部は北米に渡りました。IBPCは分子生物学へと研究の軸足を移していき、第二次世界大戦後の1947年以降、その中心となったのはフランスにおける遺伝学のパイオニアとなったボリス・エプルッシでした。IBPCの図書室では毎月、パスツール研究所のジャック・モノ(ノーベル生理学・医学賞1965年)とエプルッシの二人が司会を務め、パスツール研究所のアンドレ・ルヴォフ(ノーベル生理学・医学賞1965年)や、マックス・デルブルック(ノーベル生理学・医学賞1969年)、フランシス・クリック(ノーベル生理学・医学賞1962年)、ライナス・ポーリング(ノーベル化学賞1954年)など多くの研究者が集って自由闊達な議論が行われました。ロシア系ユダヤ人のエプルッシは、ロシア十月革命(1917)の後に来仏し、1927年にIBPCに助手として迎えられた後は米国に渡って研究を続け、1945年になってIBPCに戻ったのです。
 IBPCは1997年にエドモン・ロートシルト基金からCNRSに運営が委託されました。CNRSの生物科学研究部門と化学研究部門に属する4つの研究ユニットでは、今もペランの目指した分野横断的研究を続けています。同じ敷地にはマリー・キュリーのラジウム研究所、数学の研究で有名なアンリ・ポワンカレ研究所、海洋・地理科学研究所などがあり、先端の研究を行っています。

 最後にペランのその後について記しておきます。戦局の進展と共に、IBPCの研究者が応用や軍事研究に動員され始め、1940年にパリがドイツ軍の占領下に入ると、ユダヤ系、ナチスから逃れてきたドイツ人、さらに国籍によらず左翼系研究者も逮捕される事態となりました。これを受けペランは1941年に米国へ渡り、フランス人科学者の結集を目指しましたが、翌1942年ニューヨークの地で客死しました。第二次大戦後の1948年、フランス国家に貢献した偉人の一人としてパンテオンの墓所に葬られ、IBPCにほど近いサントジュヌヴィエーヴの丘の一角で眠っています。

図2:IBPC(著者撮影)

 

科学技術振興機構(JST) 研究開発戦略センター(CRDS)
海外動向ユニット フェロー 
八木岡 しおり

八木岡 しおり(やぎおか しおり)
 1989年明治学院大学文学部フランス文学科卒。日本アルカテル・ルーセント株式会社・真空機器事業部・セールスグループ・キーアカウントマネージャー、リタール株式会社・マーケティング部・部長などを経て、2017年より国立研究開発法人科学技術振興機構研究開発戦略センター・海外動向ユニットにてフェロー。